案件No.002:『お早よう』…喋らないというストライキを始めた実・勇兄弟は、どうしても意思を伝えなくてはならない時に、なぜ筆談しないのか?

テレビを買ってくれとしつこく言う実(設楽幸嗣)に対し父親(笠智衆)は“少し黙っててみろ”と叱る。 設楽は勇(島津雅彦)を巻添えに無期限の黙秘ストライキに入る。

筆談すれば喋ることなしに意思が伝えられることができることぐらい、幼い弟はともかく兄は気づいていて当然であろう。

『お早よう』は『生れてはみたけれど…』のリメイク作品である。 つまり『生れては…』と同様に、模範であり絶対であるはずの大人に裏切られる想いを抱く子供の姿を描くことにより大人の矛盾をさらけ出し、観る者を苦笑させずにはおかないという構造を継承している。

本作品で糾弾されるのは、父親の上司に対する態度ではなく、大人一般の会話の表面的愚鈍さである。 “おはよう”、“いいお天気ですね”、“ああそうですね”、“なるほどなるほど”。 冷静になれば、これらは無意味に聞こえる。 子供の反抗もわからないではない。

ところが、設楽はここで大きな間違いを犯している。 笠が“喋るな”といっているだけのに対して、大人の《会話》つまりコミュニケーションを攻撃してしまう。

いきがかり上、設楽は喋らないだけでなくコミュニケーション全般を拒絶するという行動に出ざるを得なくなってしまったのである。 筆談がコミュニケーションの一種であることは疑う余地もない。

【結論】 ストライキは、本来ならば《喋らない》ということが唯一の手段だったはずが、設楽の軽はずみな言動から《コミュニケーションを拒絶する》という、より深刻な方法をとらなくてはならなくなった。 したがって筆談をも拒絶するのは当然だったのである。

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すると、ジェスチャーは《コミュニケーション》には入らないのか、という疑問が湧く。

《タンマ》はOKであったことを思いだしていただきたい。 ストライキに入る直前、“タンマ、ありかい?”と島津が尋ねると、設楽は“あり”と答える。 タンマするには、人さし指と親指で円を作るジェスチャーを相手に示し、相手の了解を得る必要がある(らしい)。 つまり、彼らにはジェスチャーがコミュニケーション手段であるという認識はあっただろうが、最初から例外的にストライキの範囲外だったのである。

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それならば…、タンマすれば喋ってもいいはずである。 なぜタンマしなかったのか?

簡単である。 事前にタンマのジェスチャーを大人たちに教えていなかったのだ。 すでに指摘したようにタンマは相手の了解を必要とするため、タンマのジェスチャーをしらない大人にタンマを要求してもむだ。 彼らはタンマモードに入ることをあきらめたのだ。 先生に対してもそうだったでしょ?

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